つくるくらし

家がつむぐ物語―家糸プロジェクトのはじまり Vol.01


家がつむぐ物語
 ひとつの家に刻まれた記憶を、未来へつないでいく「家糸プロジェクト」。
その様子と、込められた想いを全4回のコラムでお届けします。







ゆとりある街並みと豊かな緑。閑静な住宅街として知られる田園調布のまちで、ひときわ目を惹く洋館。一度見たらきっと忘れないこのお家は、実はライフスタイルプロデューサーとして活躍する、村上萌さんのお祖母様のお家でした。木造モルタル塗り、2階建て。美しく趣向を凝らしたたくさんの窓と、凝った屋根の形。90年余りもの歴史を持ち、2000年には登録有形文化財にも登録された貴重な建物。そして何より萌さんたち家族の思い出が詰まった大切な家ですが、お祖母様が2014年春に亡くなり、残念ながら土地ごと手放さざるを得なくなってしまいました。

「たとえ家がなくなっても、この家に刻まれた記憶を未来へつないでいきたい」と考えた萌さんは、リノベーション会社である株式会社リビタに相談します。一夜限りの建物見学会の開催と、扉を中心とした部材を取り外し、家の物語とともにリノベーションを通じた新たな場づくりへと受け継いでいくことになりました。それが、「家糸(いえいと)プロジェクト」です。

11月末日。お祖母様が亡くなってから「まだ、おたまひとつ片付けられていない」というこの家で、萌さん、旦那様、そしてこの家で生まれ育った叔母様が、この家の物語を聞かせてくれました。



田園調布の歴史とともに

萌さんにとって母方の祖父母が暮らしていたこの家は、築90年余りを迎えようというドイツ様式の洋館。表面の粗い黄土色のドイツ壁に、田園調布の旧駅舎とよく似た外観。その歴史は大正初期、田園調布というまちが誕生した頃までさかのぼります。

 日本資本主義の父と呼ばれる経済人・渋沢栄一の指揮のもと、このあたりの土地が“理想的な住宅地”として開発されたのが大正7〜12年のこと。時代は下り、第二次世界大戦後の高度経済成長期には高級住宅地としてもてはやされ、地価も高騰。さらに開発初期に移住してきた住民第一世代が高齢化し、世代交代とともに土地の売買・相続、細分化が進みました。現在の田園調布には当初の同心円・放射状の道路地割は残っていますが、当時の屋敷構えを残す住宅は多くありません。刻々と変化していく町並みの中で、この家は田園調布の歴史を伝える貴重な住宅でもあります。

時計の針を、萌さん一家の物語に戻しましょう。もともとドイツ人夫婦が住んでいたこの家が売りに出たのは、戦時中のこと。昭和18年、出征していた若きお祖父様のため、曾祖母(祖父の母)が「息子が無事に帰ってきて住むように」と願いをこめて購入したそうです。その願いが届いたのでしょう。お祖父様は無事帰国し、この洋館で新婚生活をスタートさせます。


大切な日も、何でもない日も

萌さんのお母様はこの家で、三人きょうだいの次女として生まれました。夫となった人(萌さんのお父様)は、実は田園調布小学校の同級生。きっかけは同窓会での再会でした。

「父は子供の頃、この家を“お化け屋敷”と呼んでピンポンダッシュをしていたそうなんです。それが母との結婚が決まり、両親に挨拶をするためこの家に連れてこられて“この家かー!”と(笑)。玄関を開けると、当時の人にしては大柄だった祖父のまな板のような下駄があって、すごく怖かったそうです」
田園調布で生まれ育った二人は結婚し、やがて萌さんが生まれます。祖父母にとっては四番目の孫。自宅は横浜にありましたが、お父様が海外で仕事をしていたため、幼い頃は毎週末のようにお母様・弟さんとそろって田園調布の家で過ごしたといいます。
「叔父(母の弟)が同じ敷地内に住んでいたこともあって、普段からいつも親戚たちが集まっていました。特別な時でなくても、季節の節目、祖父が“おいしいお肉を買ったから”と呼んでくれたとき、誰かの誕生日とか」多いときは親戚だけで20人以上。ダイニングの大きなテーブルの上は、いつもみんなが持ち寄った料理や食べ物でいっぱいでした。恋人としてお付き合いしていた頃から参加していた旦那様いわく「毎日がお正月みたい」だったそう。

大切な日も、何でもない日も。この家が紡いできた百年もの物語は、三代にわたる家族の日々の暮らしそのものだったのです。

撮影:井島 健至

※参考文献:「田園調布 鈴木家住宅 調査報告書」(2014年9月 歴史・フォロ 武蔵野美術大学建築学科同窓会(日月会) 有志の活動)
※本記事は2014年~2015年に行われたリビタの家糸プロジェクトの転載記事です