豊かに暮らすひと

アフターコロナで考える。
アートの健康な使い方<1/4>
秋元雄史さん 東京藝術大学大学美術館館長・教授

ベネッセアートサイト直島の地中美術館初代館長を経て、金沢21世紀美術館館長を務め、現在は東京藝大の美術館館長・教授としてアーティストの育成も手掛けている秋元雄史さん。現代アートを限られた人たちだけの教養ではなく誰もが日常で楽しめるものと捉えて、芸術への認識の成熟を促し、その可能性を広めています。リビタがプロデュースする『KAIKA 東京 by THE SHARE HOTELS』に設置するアート作品の公募では、審査員を務めました。長く現代アートの最前線でアーティストとアートを見つめてきた秋元さんに、日本の現代アートの現在地やアフターコロナのアートのありかたについて話を聞きました。

PROFILE

秋元雄史(あきもと・ゆうじ)
1955年東京生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科卒業後、作家活動をしながらアートライターとして活動。1991年に福武書店(現・ベネッセコーポレーション)に入社し、直島のアートプロジェクトを担当。開館時の2004年より地中美術館館長/公益財団法人直島福武美術館 財団常務理事に就任、ベネッセアートサイト直島・アーティスティックディレクターも兼務。2006年に財団を退職、2007年 金沢21世紀美術館 館長に就任。10年間務めたのち退職し、現在は東京藝術大学大学美術館 館長・教授、練馬区立美術館 館長、金沢21世紀美術館特任館長、国立台南芸術大学栄誉教授。

芸術は、もっと暮らしの一部になっていい

―現代アートと聞くと、どうしても「難しそう」と身構えてしまうところがあります。

今までの現代アートは、特に生活の中で用途があるわけではないし、物としてとても大きくなっているので、日常的な存在というわけにはいかないかもしれないですね。近寄りがたいところがあるかもしれません。ただ一方で、芸術は人々の暮らしの中で、精神的な支えとして存在してきた歴史もあるわけです。今は美術というと美術館で見るのが当たり前になっていますが、私は、芸術はもっと暮らしの一部であっていいと思うし、さりげないものであっていいと思う。

―アートが暮らしの一部になっていくと、そのかたちは変容していきそうです。

今、現代アートの世界では、多様性ということが言われていて、非常に表現の幅が生まれています。単に色々な表現があるというだけでなくて、作る、あるいは描く主体が、多様になってきています。これまでの美術の歴史は男性が作ってきたわけですが、例えば、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ゴッホ、ピカソなど、多様な個性だと言っても、みんな男性で、かつ西洋人なわけです。ところが最近はだいぶ異なってきて、女性の表現者が多くなってきているし、アジア人、黒人など人種の枠も超えつつあり、少数民族など、さまざま。障害のある人たちの表現も注目を集めていて、色々な主体が語り出しています。今後は、誰が何を表現するのかという根本の部分が変わっていきそうな気がします。

―新型コロナウイルス(以下、コロナ)の影響が拡大して、世界中が前代未聞の状況におかれています。この状況で、これからは一気に様々な価値転換が起こりそうです。

コロナを経験して、日常の在り方が変化してしまいました。アートは、自らの役割や立ち位置を改めて考えていく時期です。暮らしとアートの関わりをどのように考えていくか大事な時期に来ていますね。これからの生活を充実させていくためのアートというものが、さらに発展していったらいい。生活との関わりという点では、前から私は工芸というものに注目してきましたが、工芸の価値は増していくかもしれないですね。

【KAIKAで秋元雄史さんに聞く】現代アートの深い経験と知識を元に多くの著書を出している秋元さん
現代アートの深い経験と知識を元に『直島誕生』『アート思考』『日本美術鑑賞』等、多くの著書を出している秋元さん


―秋元さんの中では、アートと工芸は同一のもの、ということですか?

工芸も広い意味では、アートの一部です。日常的に使える、使えないという違いで、工芸を他の芸術と分けて語る場合がありますが、それは一つの方便で、本質的には「美しい」というところでは共通していると思います。

工芸はいま大きく二つの方向があると思います。一つは芸術作品化していくという方向。こちらは目で見て楽しむということに主眼が置かれています。もう一つは、”使えるもの”をつくるという方向で本来の工芸とも言えます。ただ今の時代では、生活の中での美というのは主にデザインされた製品がカバーしているところがあるので、工芸はデザインと比較されつつ展開していくということになりそうですね。いいデザインに負けない、あるいは、匹敵する工芸ということでしょうか。また工芸のいいところは、歴史的な経緯が、材料や作り方に含まれているところです。デザインと異なる良さがここです。

欧米では、日本の民芸運動が注目されます。芸術の判断基準を「個性」「非日常性」などに置く西洋美術からすると対極的な価値観ですが、だからこそ民芸が評価されるのかもしれません。「誰が作ったか分からない」「生活との結びつきから生まれた」など、極めて日本的で、生活感溢れるところが良いのでしょう。それに装飾を排したシンプルな美しさが、かえってモダンデザインのシンプルな美しさと共通しているようにも見えて、喜ばれるのだと思います。

―日常的に使っているものの中にふと気が付く美しさも、アートということですね。

誰でも、食事を盛るお皿は必要でしょう? そのお皿は美しいほうがいいじゃないですか? その美しさは美術館に飾ってある絵画の美しさとは異なった、もっと日常的な美しさですね。無意識に何気なく使っているけれど、自分にとって気持ちのいいもの……そういうものですね。押し着せがましい美しさではなくて、他のものと調和した美しさということでしょう。こういう美は気持ちがいい。主役としてどれだけ立派かというのではなくて、脇役としていい仕事をしているというスタンスの美術が生まれてきてもいい。主役は生きている人たちで、アートは人を豊かにしたり、彩ったりするもの、そのくらいでいいと思いますね。

これまでは、本当に大事にしないといけないものを押し除けて、生活の合理性とか、効率性を追求してきたけれども、今回のコロナ禍で否が応でも休まなければならなくなって、案外足元を見直す機会にもなったように思います。そうやって自分の身の回りを見直すと、丁寧な生活をもう一度してみたいと思うようになる。その過程で、さりげなく暮らしを豊かにするものとしてアートが見直されていくといいと思います。

【KAIKAで秋元雄史さんに聞く】現代アートを公開保管するアートストレージを併設したリノベーションホテル
インタビューを行った場所は『KAIKA 東京』。現代アートを公開保管するアートストレージを併設したリノベーションホテル


芸術は、社会を成り立たせるための価値基準の一つ

―日常にあるものを美しいと思える感受性は、個人差はあるけれど元々人間に備わっているものだと思います。人間が社会を営む限り芸術のある社会は持続するのだと思いますが、1枚の絵が数百億という価格で取引されている社会は別世界のようです。

芸術が本当に成り立つかどうかとか、アートというけったいなものが存在するかどうかというのは、実はかなり限られた人との関係の中で実現してしまうことなんです。たとえばゴッホを例に話を分かりやすく単純にすると、作家本人が命をすり減らして、生涯を投げ打って取り組んだものであるという条件が一つ、ゴッホが自分の芸術を信じているのと同じ勢いでそれを信じられる人が側にいたというのが一つ、言葉でゴッホの価値を共有することができる人、ファイナンシャルができる人、ゴッホの絵を捨てずに持ち続ける人、この人たちがいたからゴッホの絵は残っているし、今では数百億円で取引をされている。今でいうと、美術館・画商・コレクターという役割になっているものですね。

一方で、社会の中の芸術の必要性とかパブリックな文化としての芸術を考えていくと、それはまた別のところにある。僕が話している芸術が日常化すればいいというのは、パブリックな場を形成する芸術という役割で、1人のアーティストが成功して歴史に残るというのとは別のところにあるものです。近代美術ではそれが一緒になっているのだけれど、昔から芸術のある暮らしは存在している。アルタミラ洞窟の壁画は誰が書いたか分からないし、縄文土器に作者がいるわけではない、でもそれは美しい、これと同じこと。芸術や文化というのはある種の共同元素みたいなもので、社会を成り立たせるための目に見えない一種の価値基準なんです。