豊かに暮らすひと

次のアイデアを外から呼び込む「余白」の力 ~ソニーはなぜ銀座の一等地に公園を作ったのか<1/4>
永野 大輔さん
ソニー企業(株) 代表取締役社長・チーフブランディングオフィサー

PROFILE
永野 大輔(ながの だいすけ)
ソニー企業株式会社 代表取締役社長・チーフブランディングオフィサー。1992年にソニー株式会社入社。営業、マーケティング、経営戦略、CEO室などを経て2017年から現職。「Ginza Sony Park Project」のリーダーとして、2013年からプロジェクトを推進し続け、2018年8月9日に「Ginza Sony Park」をオープンさせた。
* 本記事は2020年2月に取材した内容を基に作成しております。施設の最新情報及び営業時間については、Ginza Sony Park 公式サイトにてご確認ください
2018年8月9日、解体された銀座 ソニービル跡地にできたのは、Ginza Sony Park(銀座ソニーパーク:以下ソニーパーク)という名の「公園」でした。銀座の一等地になぜ「公園」なのか。一私企業であるソニーがなぜ「公園」をつくるのか。さまざまな問いをぼくらにもたらしたソニーパークにはその後、今日に至る1年余りで560万人(2020年1月31日現在)が足を運んでいます。
今回はそんなソニーパークを運営するソニー企業株式会社 代表取締役社長 兼 チーフブランディングオフィサーの永野大輔さんに空間づくりについて、お話を伺いました。
実は、横石はソニーパークを作る過程で、少しだけお手伝いさせていただいています。けれども、この空間に込められた意図をこれだけまとまったかたちで聞くのは、これが初めて。
企業のアイデンティティをどう表現し、それをどう世の中につないでいくのか。永野さんのお話には、ぼくらのこれからの「働く」を考えるヒントがたくさん詰まっていました。
みんなが「建てる」なら「建てない」のがソニー

2013年から銀座ソニーパークプロジェクトを牽引してきた永野氏
横石 銀座のソニービルがソニーパークに生まれ変わる際、大事にされていたコンセプトが「街に開かれた施設」、そこから導き出されたのが「公園」だったと記憶しています。どうして「街に開かれた施設」で、なぜ「公園」だったのか、改めて伺えますか?
永野さん まず、最初から「公園」ありきだったわけではありません。このプロジェクトのスタートは2013年ですが、もともとソニービルの建て替えプロジェクトとして始まりました。だから、最初に話していたのはどういうビルにするか、何階建てにするか、建築家は誰にしようかといったことで。
けれども、当時は2020年に向けて東京の街でビルの建て替えがどんどん進んでいた時期。その様子を横目で見る中で、ある時ふと、「あれ? ぼくたちが考えていることってほかとあんまり変わらないな」と気づいた瞬間があったんです。
ソニーのアイデンティティのひとつは「人のやらないことをやる」。そこに立ち返るのであれば、何か違うことをやらなければいけないぞ、と。
横石 そこで一度立ち止まるのがいかにもソニーらしいです。
永野さん それで、単純ですが、周りが「建てる」ならば「建てない」のはどうか、となりました。
2016年はソニービルが建って50周年のタイミング。お世話になった銀座への恩返しとして「パブリックなスペースに」というアイデアが出たのも、そこからです。
さらに、ソニービルの歴史を紐解いていくと、実は1966年に建った当時のコンセプトが、まさに「街に開かれた施設」というものだったとわかりました。
ソニー創業者の一人である盛田(昭夫)さんは、数寄屋橋交差点のこの10坪の三角スペースを「銀座の庭」とも呼んでいて。なんだ、当初からパブリックを意識した場所だったのか、と。

ソニービル開業当時の数寄屋橋交差点。設計は、東京オリンピック駒沢公園などを手掛けた建築家の芦原義信氏。(画像提供:ソニー株式会社)
こうして導き出されたのが「公園」というアイデアでした。「都会のど真ん中に一私企業が公園を作る」なんて誰も考えないだろうし、ソニービルのもともとのコンセプトも踏襲できる。そして、銀座への恩返しにもなる。
横石 ソニービルはもともとソニー商品のショールーム機能も果たしていました。公園にすることでその機能が失われてしまうわけですが、そこは問題にならなかったのでしょうか?
永野さん アイデアを見直すほどの大きな問題とは考えなかったですね。
そもそも今回のビル建て替えプロジェクトがなぜ始まったかといえば、「新しいソニーのブランドコミュニケーションの場を作る」というのが出発点でした。
50年前のソニーはエレクトロニクス商品しかなかったから、エレクトロニクス商品を置いたショールームがブランドコミュニケーションの最適なインターフェースだったんです。でも、この50年の間にソニーの事業は多角化し、また時代も大きく変化しています。
となると、最適なブランドコミュニケーションのかたちも変わるはず。必ずしもショールームである必要はなく、もっと実験的な場であっていいだろうというのが、ぼくらの認識でした。
>>次ページ:テナントではなく「余白」が主役
2018年8月9日、解体された銀座 ソニービル跡地にできたのは、Ginza Sony Park(銀座ソニーパーク:以下ソニーパーク)という名の「公園」でした。銀座の一等地になぜ「公園」なのか。一私企業であるソニーがなぜ「公園」をつくるのか。さまざまな問いをぼくらにもたらしたソニーパークにはその後、今日に至る1年余りで560万人(2020年1月31日現在)が足を運んでいます。
今回はそんなソニーパークを運営するソニー企業株式会社 代表取締役社長 兼 チーフブランディングオフィサーの永野大輔さんに空間づくりについて、お話を伺いました。
実は、横石はソニーパークを作る過程で、少しだけお手伝いさせていただいています。けれども、この空間に込められた意図をこれだけまとまったかたちで聞くのは、これが初めて。
企業のアイデンティティをどう表現し、それをどう世の中につないでいくのか。永野さんのお話には、ぼくらのこれからの「働く」を考えるヒントがたくさん詰まっていました。
みんなが「建てる」なら「建てない」のがソニー

2013年から銀座ソニーパークプロジェクトを牽引してきた永野氏
横石 銀座のソニービルがソニーパークに生まれ変わる際、大事にされていたコンセプトが「街に開かれた施設」、そこから導き出されたのが「公園」だったと記憶しています。どうして「街に開かれた施設」で、なぜ「公園」だったのか、改めて伺えますか?
永野さん まず、最初から「公園」ありきだったわけではありません。このプロジェクトのスタートは2013年ですが、もともとソニービルの建て替えプロジェクトとして始まりました。だから、最初に話していたのはどういうビルにするか、何階建てにするか、建築家は誰にしようかといったことで。
けれども、当時は2020年に向けて東京の街でビルの建て替えがどんどん進んでいた時期。その様子を横目で見る中で、ある時ふと、「あれ? ぼくたちが考えていることってほかとあんまり変わらないな」と気づいた瞬間があったんです。
ソニーのアイデンティティのひとつは「人のやらないことをやる」。そこに立ち返るのであれば、何か違うことをやらなければいけないぞ、と。
横石 そこで一度立ち止まるのがいかにもソニーらしいです。
永野さん それで、単純ですが、周りが「建てる」ならば「建てない」のはどうか、となりました。
2016年はソニービルが建って50周年のタイミング。お世話になった銀座への恩返しとして「パブリックなスペースに」というアイデアが出たのも、そこからです。
さらに、ソニービルの歴史を紐解いていくと、実は1966年に建った当時のコンセプトが、まさに「街に開かれた施設」というものだったとわかりました。
ソニー創業者の一人である盛田(昭夫)さんは、数寄屋橋交差点のこの10坪の三角スペースを「銀座の庭」とも呼んでいて。なんだ、当初からパブリックを意識した場所だったのか、と。

ソニービル開業当時の数寄屋橋交差点。設計は、東京オリンピック駒沢公園などを手掛けた建築家の芦原義信氏。(画像提供:ソニー株式会社)
こうして導き出されたのが「公園」というアイデアでした。「都会のど真ん中に一私企業が公園を作る」なんて誰も考えないだろうし、ソニービルのもともとのコンセプトも踏襲できる。そして、銀座への恩返しにもなる。
横石 ソニービルはもともとソニー商品のショールーム機能も果たしていました。公園にすることでその機能が失われてしまうわけですが、そこは問題にならなかったのでしょうか?
永野さん アイデアを見直すほどの大きな問題とは考えなかったですね。
そもそも今回のビル建て替えプロジェクトがなぜ始まったかといえば、「新しいソニーのブランドコミュニケーションの場を作る」というのが出発点でした。
50年前のソニーはエレクトロニクス商品しかなかったから、エレクトロニクス商品を置いたショールームがブランドコミュニケーションの最適なインターフェースだったんです。でも、この50年の間にソニーの事業は多角化し、また時代も大きく変化しています。
となると、最適なブランドコミュニケーションのかたちも変わるはず。必ずしもショールームである必要はなく、もっと実験的な場であっていいだろうというのが、ぼくらの認識でした。
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